HEMC Reports

2025年2月:あの日から30年…

名誉院長・顧問 中山 伸一

 あの日から30年…。1月17日5時46分、三ノ宮の東遊園地はたくさんの人々で身動きできない状態だった。

 美しかった私のふるさとの街が一瞬にして変わり果てたあの日から、そう30年も経ってしまった。忘れられないことを3つ挙げるとすると、かけがえのないものを失った喪失感、本震もさることながらくりかえす余震の怖さ、そして夜遅く病院から家に向かうことができるようになった時、線路の両側とも真っ暗闇で灯り一つ点っていないJRの普通電車の車両に居合わせた乗客。

寒い冬、お互い誰一人言葉は交わさずとも、顔を見合わせながら「お互い助かってよかったね!」と心の中で会話しているその胸の中の暖かさ…

 あの時、私は39歳。思えば、まあ若かった〜… 他での講演では時々語ってきた個人的逸話に過ぎないが、身内であるHEMCメンバーにはその機会があまりなかったので、今回は私の体験の一部を披露させていただく。覚えているうちに…

 あの日、垂水区の民間救急病院の当直室で、救急患者も途切れてうとうとしていた朝方、突然、ゴ〜という音に続いて、ベッドの下から一旦突き上げられ私の身体はまるでトランポリンでもしてるかのように跳びはねた。長かった轟音と揺れのあと、周囲はまだ薄暗くシーンと静まり返っている。ざっと院内の入院患者の無事を確認した後、自宅に電話をかけたが、つながらない!!当時、所属していた神戸大学救急部に電話を入れてみる。ようやく何回目かに電話がつながった。当直医を呼び出すと、患者はまだ来院していないとのこと。「これからきっと多くの外傷患者が搬送されてくる。とにかく各科の当直医を集めて、トリアージを念頭に入れて初期対応してくれ!」と電話口で指示した。

 「あのう、その〜、そのトリ〜、トリ何とかって、何のことですか?」思いがけない当直医のその答えは、ホンマの話。当時、トリアージという言葉や概念はまだ医師にすら浸透していない時代だったのだ。

 そうこうするうち、その当直病院にも患者が押し寄せてきた。全員、歩行可能、すなわちトリアージ緑の人が最初に医療機関にたどり着く。一人ひとり丁寧な処置をしていては数がこなせない。救急外来待合にズラッと患者を座らせ、懐中電灯で傷を確認しながらガーゼを渡し自分で圧迫止血をしてもらうなど最低限の処置をして回った。と、そこへ自宅近所の方が幼子を抱えて来院。よく見れば、なんとそれは間も無く3歳の誕生日を迎えるわが娘だった。自宅のタンスが倒れて妻の大腿と娘の頭部に当たり、嘔吐して顔色が悪いため、妻と長男とともに当直先まで歩いて娘を抱いて連れてきてくれたのだった。CTもレントゲンも撮影できない。理学的所見上、命に別状はないと判断し、近くの私の実家に避難して経過をみるよう指示するしかなかった(今、元気に憎まれ口を叩いている〜)。

 10時過ぎ、マンション6階の自宅に戻ってみると、TVはぶっ飛び、重たいピアノが2mも動いている。いろんなものが棚から床に落ちて足の踏み場もなく、よくここから抜け出せたなあという状況。風呂桶に水だけ溜めて、しばらく自宅には帰れないだろうと予想しながら、大学病院に向け車で出発した。カーラジオのスイッチを入れてはじめて、住居のすぐ目の前の明石海峡あたりが震源で神戸の街がえらいことになっていると理解した。進行方向の東の空を見上げると雲が赤黒い。

 「これが地震雲?」と錯覚したが、それは長田区、兵庫区を舐め尽くした火災の炎と黒煙だった。悪路と大渋滞の中やっとのことで大学病院に到着にしたのは夕方近く。救急外来は救急患者でごった返していたが、大学ならではのマンパワーを救急部に集結し、いわば挙院一致で診療に当たってくれていた。その後、私は相次ぐ救急患者の来院で開きっぱなしの自動ドアから寒い冬の西風が入り込む救急外来で連日不眠不休で働くことになったが、1月22日にはついに過労+高熱(インフルエンザ?)で倒れてしまった(意識不明同然で、救急当直室の2段ベッドでコンコンと眠っており、血液検査と点滴で左腕に針を刺されていたことも気づかず。ちなみに、肝逸脱酵素が3桁に上昇していた)。その頃、東灘区の避難所では小澤修一先生が、県立西宮病院では鵜飼卓先生が奮闘されていたことは、当時知る由もなかった。それから連日、こんな日がいったいどれだけ続くのか、全く先が見えない状況下、試行錯誤の毎日が続いた。

 約2ヶ月経過した3月25日に淡路島の津名にあるしずかホールで「第71回近畿救急医学会」が開催された。そこで緊急パネルディスカッションで、兵庫県をはじめ近畿地方の救急医を中心にホットな意見交換がなされた。

 大阪の熱心な一人の救急医曰く、「俺は自分の病院でベッドを開けて待っていた。なのに、いつまで経っても患者は送られて来えへんかった。神戸の医者はなんで転送せえへんかったんや!?」

 兵庫の熱心な救急医たち:「その言い草はないやろ!」みんな振り向いて、手を挙げた。「なら、神戸に入って、患者を一人でも連れて帰ったらよかったんや!」そんな思いだった。

 この話を披露するのは、その大阪の医師を批判しているのではない。兵庫も大阪の医師も、災害時の医療対応について全く無知だったということの証なのだ。その後の調査で、あの震災で被災地外に出していたら助かったかもしれない患者(すなわち、Prevebtable Death)が約500名あったことが報告された。

 そういえば、こんなこともあった。大阪市立大学の透析専門医から電話が入ったのは,確か1月19日だった。

「被災地ではクラッシュ症候群患者が多数発生していると聞いたが,本当か?もしそうなら,血液透析が必要な患者がたくさん出ているのでは?転送してくれたら,すべて大阪の医療機関で受け入れるから!」

 これは目からウロコだった。
「被災地外へ転院させて助けられる命があるなら,大学病院と言えども最後の砦と思わず、転院させればいいのだ!」

 透析など集中治療継続が必要と判断したクラッシュ症候群患者17名を選び、1月19日から六甲アイランド病院を中継地点とし、15名を船で大阪天保山港へ、2名をヘリコプターにより転送したのだった。そこから先は大阪側で救命センターなどへ分散搬送 。この転送こそ、まさしくその後提唱される「広域医療搬送」をぶっつけ本番でやった格好だ。なお、このうち15名は生存退院し、腎機能も程なく回復し退院している。

 その一方では、重症すぎて転送できない方もいた。今でも忘れられないのは、地震当日に入院された47歳の重症のクラッシュ症候群の方。筋膜切開や持続血液透析をしながら、74日にわたって治療を続けたが、腎不全、そしてSepsisから消化管出血、そして最後は脳出血をきたして、3/31に永眠された。当時は、Preventable deathではないと思っていた。そう信じたかった。状況が異なるとはいえ、今のHEMCなら救命できたに違いない。

 どれくらいこんな状況が続くのかと自問自答しつつ、1ヶ月、1年、2年〜と経過する中、後で振り返れば後悔と反省が多く残る。救急医療と災害医療を一生やって、できたことよりも失敗と反省を含むそんなカンナを発信することこそ、自分に与えられた使命というか罪滅ぼしになるのでは?なんて思いながら、なんと30年も経ってしまった(今もDMAT研修などで紹介されるシーソーのスライドや神戸大学病院とK病院のスライドは、そんな思いから被災地内の医療機関の状況調査研究を行った私が作ったものである)。この国と世界で災害が多発する中、それができたのか?大変疑問が残るのだが…

 ただ、その中で最大の成果だと胸を張って断言できるのは、世界でも他に類を見ない施設に成長した「兵庫県災害医療センター(HEMC)」である。だから、あの震災を経験した鵜飼卓先生、小澤修一先生をはじめ多くの方々の努力で苦節8年がかりでHEMCが創設された経緯や苦労にも思いを馳せながら、あれから30年経つ今、日々の「救命救急医療」と毎日は襲って来ないため逆に普段からの不断の努力こそ大切な「災害医療」への努力をたゆまずに続けて欲しい。それが、私の心からの願いである。その両立とギアチェンジは結構難しいからある。人は忘れやすい生き物。しかし、HEMCで働く私たちは、30年前にこの地で起こったこととその教訓を決して忘れてはならない。


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