HEMC Reports

2024年2月:令和6年能登半島地震DMAT派遣 HEMC DMAT一次隊

救急部 N医師(1/10~14派遣)

2024年1月9日、厚生労働省DMAT事務局から近畿ブロックに対しDMAT3次隊派遣の要請がなされた。川瀬副センター長から命を受け、HEMC1次隊の隊長として参加することとなった。その日のうちに5名(O医師、A師長、T看護師、W救命士)が決定し午後から出動準備にとりかかる。

1日目 日赤の救護班とともに出発式に参加し、メディア掲載の情報を後に現地で知る。活動場所は被害のなかった金沢市内であったが診療応援が可能な装備とロジスティック活動が可能な装備を積載しDMATカーで現地に向かった。途中神戸日赤チームと食事を共にする。参集拠点は石川県立中央病院内に開設された石川中部DMAT活動拠点本部であった。

14時過ぎに到着し本部入りした。ニーズは当初の想定と異なり搬送手段を求められていた。急いでDMATカーから資機材をおろし搬送車両としての機能を確保した。また部隊を2隊に分け、搬送班としてO先生、Tさん、Wさん、本部活動をN(私)、Aさんで担う事とした。

本部はDMATの中部ブロックが担当しており、数日かけて近畿ブロックへ移行される予定であった。活動指揮本部リーダーの岐阜大学K教授(愛称くまちゃん、実は先輩)に招かれ活動指揮本部に入った。田根総合病院のY先生とともに翌日のニーズにつき情報収集を行った。

20:30まで活動し宿泊先に入る。何かの手違いで?人生初の単身ツインを経験した。

夕食と反省会を兼ねて近くの居酒屋で食事する。O先生の「ありえへん!」の一言から白熱した議論が飛び交い、夜が更けた。(ホテルに戻った後、各々翌日の資料を作成し就寝は午前1時を回る。)

2日目 朝7時20分に本部入りをし、この日から近畿ブロックがメインとなる。O医師分隊と別れ活動指揮本部に入る。夜なべして作成した資料をもとにDMAT隊の配置を練る。搬送指揮が宇治徳洲会の先生で盛り上がっているのを横目に業務に集中した。

一時待機ステーション(別名ひととき)の当直DMATを選定した。さらに我々の3次要請は各県とも前半・後半で編成され、シームレスな引継ぎが行えない問題点が浮上した。我々も例外ではなく、後半の兵庫県内チームに直接引き継ぎができない問題点が浮上し、センター長に活動延期を申し出た。

22時半頃に宿泊先に戻り、コンビニ弁当の買い出しに出かけた。姫路医療センターチームと出くわす。天然温泉旅館に泊まっていたことを知りショックを受けた。ホテル内でコンビニ弁当を食べながら反省会を行う。伝説のセレナが活躍したらしい。この日のO先生の活躍で、後に緑地公園にSCUコンテナが設置される事になろうとは、この時知る由もなかった。

3日目 活動指揮から本部に異動となった。阪大S先生とともに、活動拠点本部の運営に入る。2日間の問題点の解決のため奔走する。とにかく動き回っていたように思う・・・

石川県立中央病院内のMCC(medical check center)、スポーツセンター内の一時待機ステーションの連携が皆無であり、風通しを良くするようシステムの再構築を行った。MCCでは中央市民病院のT君がコマンドをしていたため無茶が通る。スポーツセンターには大阪医科薬科が担当しO君の話題で盛り上がる。コネって大切と痛感する。

T看護師がヘリ搬送患者の財布紛失事案を対応した。情報収集の過程である医療機関の看護師からキツく当たられていたが、大人の対応はさすが災害初療ナース!まだ活動は続いていたが我々は22時過ぎに撤収しホテル内で0時過ぎまでミーティングを行い、今後の方針を共有した。

4日目 この日から私は本部(肩書だけ本部長)、他のメンバーは情報分析班を担当することとなった。主な仕事はいままでの本部内での問題解決と後半チームへの引継ぎ準備であった。活動指揮のお手伝いも行い、なんせ忙しくあっという間に1日が終わった。

夕方には県庁からW先生がこられた。問題点として、搬送車両をヘリから下ろした患者の一時待機スペースとして使用しており、持ち物や患者の照合が終わらない限り出発できず、それが搬送車両不足に繋がっていることを挙げた。O先生の提案もあり緑地公園にSCU用の医療コンテナが設置される事が決まった。この日は早めの19:50に活動を終了した。

毎日毎食コンビニ弁当で済ませていたが、久しぶりに温かいご飯を食べるために外に繰り出す事ができた。エビのラーメンであったが体調を崩し臭いが全く分からず。

5日目 後半入りしたチームに引継ぎを行った。神戸大学からT先生がこられ、濃いメンバーで本部が兵庫県色に染まっていくのを実感した。

昼前に突然センター長から連絡が入る。垂水のジローラモことDMATの生きる伝説が雷鳥で来庁しているらしい、と・・・

石川県立中央病院に来るのは後だという事で安心し活動していると、本部内が何やら騒がしくなった。同じHEMCベストを纏った白髪男性が本部で報告を受けている。さらに所々で記念撮影を求められていた。何を隠そう、名誉センター長の伸一先生であった。我々が、おじいちゃん!と声をかけると、取り巻きが目を大きく開いて驚く。それほどすごい人だったのだ。

撤収準備も終わり引き上げることとなった。伸一顧問を加え6名となったチームは視察と称し緑地公園とスポーツセンターを巡った。いままで報告や電話の向こうで行われていた出来事を初めて3次元として捉える事ができた。どのエリアもまだまだこれから支援が必要である。最後に伸一先生を県庁にお送りし、後ろ髪をひかれる想いで金沢市を後にした。

帰路の車内はあまり記憶にないが、とにかく終始運転に徹してくれたWさんに話しかけていた気がする。摩耶ICをおりた直後の連絡にも関わらずN先生を始め、当直・初療夜勤メンバーが温かく迎えてくれ、初めて長い緊張から解放された。

石川能登半島地震のDMAT派遣
HEMC1次隊として行ってきました!

事業課 W病院救命士(1/10~14派遣)

1月1日に発生した能登半島地震において、1月10日~14日まで兵庫県災害医療センターのDMAT隊として支援に行かせていただきました。朝、神戸赤十字病院の救護班の方々と一緒に出発式を行い、たくさんの方に見守られながら行かせていただき、とても心強く感じました。

出発し、参集場所である石川中央DMAT活動拠点本部(現在:金沢以南保健医療福祉調整本部(石川県庁内))がある石川県立中央病院に向かっていると連絡があり、「搬送ミッションがあるので、どれくらいに着きますか?」と連絡があり、本部人員と搬送部隊に分かれることをチームで共有し、参集場所に参集後、私は搬送部隊として小松空港の搬送支援に行きました。小松空港に向かっていると、地割れが見受けられ、より安全運転を心掛けないといけないということを実感しました。小松空港に到着した時には、30分後にCH47(チヌーク)が到着するとのことで、先着していた、大阪医療センターDMAT隊から短時間でミッションにおける説明と、搬出方法のブリーフィングが行われました。チヌークから搬出時、すでに日も暮れ気温も下がっていたので、搬送されてくる患者さんたちを早急に車内に収容させ、搬送先病院(自分たちは加賀医療センター)に向かいました。

当院のDMATカーのストレッチャーは、クッション性がないので、みんなで相談し、持ってきていた銀色のマットと寝袋で患者さんの負担を少しでも軽減できるように敷き詰めて搬送をしました。毛布も持っていってなかったので、さらに寝袋をかけ、できる限りの患者さんの負担軽減に努めました。夜の慣れない土地での緊急走行、即席でのストレッチャーでの搬送はなかなかドキドキでした💦

2日目、石川県立中央病院内の活動拠点本部の搬送班として活動しました。朝から、チヌークの着陸があるとのことで、宇治徳洲会病院が搬送班をまとめることとなり、HEMCチームのO先生とT看護師と私(N先生とA看護師長は活動指揮班)は、宇治徳洲会チームとともに搬送班の体制づくりを行いました。搬送班は、搬送調整班の下部組織となり、搬送における車両のマッチングと搬送実働における情報の集約を行うための班として創設されました。搬送を行う上で、各チームの車両の把握、車両リストの作成、さらに情報の共有方法など、班の立ち上げということもあり、まずはCSCAの確立を行っていきました。宇治徳洲会チームとも相談しながら、LINEを活用し、情報の共有を行うことになりました。搬送実働隊から、搬送した際の困ったことなども集約し、私の目標としは、離れた現場にいる搬送実働隊ができるかぎり不自由なく搬送に集中できるようにすることでした。連絡方法や、安全管理、資料の作成などを皆さんと協力し、非常に学ばせてもらうことが多くありました。

3日目、本部ロジとして活動しました。N先生の下、各班の困りごとに対応していくことになりました。主に、搬送班の困りごとに対応していき、忘れ物の対応や搬送班の業務の見える化として、搬送班の業務を本部に報告する担当として活動しました。さらに、搬送実働班の予備班(車両が足りない時の応援隊)として待機することになっていたため、午後から、チヌークが西部緑地公園に着陸する際には、搬送班としてT看護師と一緒に出動していきました。搬送は1回のみと思っていたのですが、搬送終了後に連絡があり、もう一度チヌークが来るため、西部緑地公園に向かうようにと指示があったため、すぐに向かいました。

到着すると、金沢市消防局の救急隊が到着しており、情報共有を行い、ミッションの説明とどのような体制をとるかのブリーフィングを行いました。びっくりしたことが、金沢市消防局さんの使用している無線がスマートフォンタイプだったのです。(写真がなくてすみません<(_ _)>)電話としても使用し、隊活動の無線として使用しているとのことでなんと便利なものがあるんだと思いました(総務省の実証実験で使用しているだとか、、、)。いろいろと話をしていると、本部からO先生が来て、現場の指揮リーダーを務め自衛隊、救急隊、DMATへの情報共有を行う形となりました。めちゃめちゃかっこよかったです🤩

2回目の搬送先は、金沢赤十字病院に搬送とのことで、搬送に行くとみなさん温かくて、「寒いのにご苦労様です。トイレとか大丈夫ですか?」とお声掛けいただき、平時の業務・多数の受け入れ患者で忙しいにも関わらず、優しい言葉をかけていただけたことに頭が下がる思いでした。

4日目、5日目は、引き続き本部ロジとして活動しました。自分たちの隊としても、撤収のことを考えないといけなかったのと、全体的に隊が入れ替わるということで、引継ぎ方法における、説明の簡素化を検討することとなりました。特に私が多く関わっていた搬送班は、資料が膨大にあるのと、慣れない土地での慣れない搬送をしていくことは非常に危険を伴うため、説明は十分に。しかし、短い時間で引継ぎができるように資料の見方や場所の行き方などをすぐに見れるように作成しました。LINEでやり取りしていたため、新しく来た隊がそのLINEに入ると過去の画像などが見ることができないため、次の隊の人たちがまた同じ資料等をLINEに貼らないようにするために、工夫をし、引継ぎ資料等を作成し、次隊への引継ぎに役立ててもらいました。

そして4日目にしてついに、金沢での現地ご飯を食べることができました!『金沢濃厚甘えびラーメン』めちゃくちゃ美味しかったですね(#^.^#) 結構体力的にも疲れてきていたので、このおいしさが染み渡りました!!金沢にもう一度行った際は、また行きたいと思いました!

今回、初めてDMATの支援に行かせていただいて、一番印象的だったことは、2月14日に中山伸一先生が石川県立中央病院に来られた時の、活動拠点本部内の雰囲気が変わったことです。みなさん長期の支援で体力も削られており、空気が少し重たいと感じていました。中山伸一先生が来られ、前でご挨拶をされたときにみなさんの士気が上がったように感じました。私が10年程前、学生の時にDMAT養成研修でHEMCに来させていただいていた時、中山伸一先生のお言葉とお話をされているのを見て、自分もDMAT隊員になりたい!と感じたことを思い出しました。

今回、一緒に行かせていただいた、N先生、O先生、A看護師長、T看護師さん、たくさん助けていただきありがとうございました。そして、後方支援をしてくださったみなさん、ホテルの手配や支援中の温かいお声掛けをくださったおかげで、無事に帰ってくることができました。ありがとうございました!今回の支援にてたくさん経験したことを今後に活かしていけるように頑張ります!!

石川能登半島地震のDMAT派遣
HEMC2次隊として行ってきました!

看護部(初療) Y看護師(1/17~21派遣)

初療のYです。この度、石川県能登半島地震のHEMC2次隊として石川県に行ってきました。2018年の大阪北部地震の時に派遣はありましたが、ほとんど活動はなかったので、実質DMATとして初めての派遣となりました。派遣の連絡を家族に報告した時、長男は「ふーん、行ってらっしゃい(ゲームをしながら目も合わせず)」、長女は「さよなら」の一言でした。こんなもんなんですかね。長男に関しては血筋を強く感じました。

HEMC1次隊の活動内容は聞いていましたが、派遣1日目は当直業務だということがわかり、具体的にどこでどんな業務になるのかはわかりませんでした。石川県に向かう道中にメンバー内で「本部?搬送?救護所?」といろいろな想定を話し合いました。そんなこんなで石川県庁に到着したのは16時頃でした。金沢以南保健医療調整本部からの指令は一時(ひととき)待機ステーションの当直業務でした。一時待機ステーションは珠洲市や輪島市から避難してきた老人保健施設の利用者の次の施設が決まるまでの待機場所として設立されました。

入所には医療介入を要さないということが条件でしたが、軽症のコロナやインフルエンザ、認知症、介護度の高い利用者が多くいました。当直業務では利用者のトイレ介助・食事介助・内服管理など病棟業務に似ていて、ボランティアの介護福祉士が大活躍されていました。病院のように仕切られた空間でもないので、誰かがトイレに行けば、連鎖のようにトイレ介助が続きます。被災したショックや環境の変化で混乱をきたしている利用者もいました。日勤へ引継ぎ一時待機ステーションを離れたのは翌日11時頃でした。思っている以上にハードな1・2日目となりました。S事業課長、運転からの当直業務、そしてホテルまでの運転お疲れ様でした。

3日目は日勤で感染症エリアの担当となり、バイタル測定や療養上のケアを行いました。利用者と話しているうちに1月1日に被災してからお風呂も入っていないし、着替えもできていないということがわかり、自分たちにできることを考え、おしぼりや空いたペットボトルを活用して保清を行いました。

4日目は一時待機ステーションの本部運営を行いました。利用者の入退所・増床管理や健康管理、内服切れなど現状と課題を挙げ活動しました。書いている内容はシンプルですが、一日中、パソコンに向き合い、クロノロを読み返し、各部門の伝令役も行い、活動期間中で一番大変だったかもしれません。

5日目の最終日は一時待機ステーションの本部運営をサポートし、HEMC3次隊に引継ぎ帰神しました。貴重な派遣経験の機会をくださった看護部の皆様、勤務調整や変更を快諾してくれた初療、ホテルの確保など後方支援してくださった事業課の皆様本当にありがとうございました。K先生、I先生、S事業課長、S看護師、ありがとうございました。

家に帰るまでがDMAT派遣なので、気を付けて帰りました。お土産を渡した時だけは家族全員が出迎えてくれました。


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