マンスリーへむく ―現場の声―:2018年7月

マンスリーへむく ―現場の声―:2018年7月

〜「初めての災害派遣記in岡山 7/8~7/11」〜

看護師Iさん

 DMAT隊員になると、要請がかかれば否応なしに現場に向かわなければならない。生きているだけでストレスフルな左利きの私にもついにその日はやってきた。自宅で突然鳴った電話は水害被害にあった岡山派遣へのお誘い。師長「本部業務で行ってもらうかも。看護師は2名で、本部経験のあるKさんも行くから大丈夫。」と言われ安心したのも束の間。師長「看護師は1名になったから」私「じゃあ、行かなくていいんですね?」、師長「あ、行ってもらう方だから」、私“( ̄▽ ̄;)!!ガーン”。その電話から3時間後、私は岡山の地に立っていた。

 メンバーは石原副センター長、N課長、事業課Oさん、私の4名。新幹線とタクシーを乗り継ぎ県庁にいよいよ到着。と思いきや建物の中で迷子(会う人会う人に場所を聞いて歩き回った結果)になり、30分後にやっと本部に到着。学び「目的地は建物じゃない。その中のどこかが大切」

 自己紹介して活動場所を確保、資機材を確認。あれっプリンターはあるけどPCがない(私とOさんはスマホを駆使して、情報収集&クロノロ入力)。N課長のmy PCにプリンターをセットしたがコンセントも見あたらない。職員用PCのコードをたどり、隙間なく並んだ机を動かしながら出来た隙間に手を突っ込む。手探りで見えない延長コードから使わない(と思われる)プラグを抜き、自分たちのプラグを差すという作業を繰り返した。「今度来るときはPCと延長コードを持って来よう」と心に誓う。

 1日目のミッションは、「浸水した“まび記念病院”の入院患者とスタッフの救助と搬送」と「EMISへのクロノロアップ」。HEMCの情報指令センターのような大型モニターはなく、連絡担当が流す情報から現場の状況を知ることができた。が、「川付き場が二万橋と川辺橋の2か所。もう1つあるかも?(実際には3か所だった)」とか「搬送まち患者が残り6人」の情報が数分後には「27人」に増えるなど聞いている方が混乱。とにかくこの搬送が終わらないと解散できない。そんな最中「散在する患者をまとめる」「県外DMATの派遣依頼」など石原先生の働きかけで事が進みだした。空腹と口渇、汗まみれの体で「早く終われ」と強く祈るがピストン搬送のため時間もかかる。目指すは「日没までに搬送終了」だったが、結果23時を回っていた。ホテルに着いたのは1時過ぎ。

 あまり眠れず2日目突入。6時半から朝食、7時にタクシーを呼ぶがまさかの配車不能。「歩いて行こう」と言う(4人の中で最も身体年齢の若い)石原先生を先頭に、炎天下の中30分ほど歩き本部到着。昨日(日曜)と違い県庁の職員たちが続々と出勤。実は本部といっても、部屋の一角を間借りし活動している。そこへ応援チームもやってきて、室内は人で溢れていた。クロノロボードは通り道にあるため、誰か通るたびに道を譲らなければならない。部屋は暑く汗が止まらない。県尼チームからもらったゼリー飲料とチョコパイで生き返る。(あの御恩は一生忘れません!)石原Dr、N課長、県尼チームを残し早めに解散。Oさんと久しぶりにまともなご飯が食べられたことに盛り上がる。

 3日目。所帯が大きくなり、救護班受け入れ作業もあるため大会議室にお引越し。電話回線数を確認し、フォーメーションを考えて机や物品を設置。HEMC2次隊(M医師、W看護師)とも合流。救護班の受付業務やクロノロなど、それぞれ業務の申し送りを実施。落ち着いたところで石原Drを残し帰神した。

 派遣期間中は石原先生のタフさに驚かされ、N課長の情報収集能力の高さやOさんのクロノロの分かり易さに憧れ、3人の姿から学ぶことも多く、とても濃い3日間だった。また、食事や休憩交代の重要性、確認作業や分からないことを聞くことの大切さ、通常業務では当たり前にされていることでも、異質でアウェイな現場だとそれらが後回しにされてしまう。でも現場が変わっても結局同じなのだと改めて実感。そして帰る場所があることに何より感謝。病院玄関での出迎えは正直恥ずかしかったが、皆さんの笑顔と「お帰り」や「お疲れ様」の言葉にとても癒された。

 DMAT隊員になれば誰でも突然出動要請がかかる可能性がある。特に本部だと求められるのはロジ能力。最近EMIS触ってない方、一度見直すことをお勧めしたい。