災害医療支援活動

中国・四川大地震

宮本

国際緊急援助隊医療チームの一員として5/20-6/2まで四川省成都市にあります四川大学華西病院にて活動を行ってきました。

まずは、派遣に行かせてもらうまでの経過です。今回派遣に参加させてもらうのは初めて、色んな段取りの話を聞いてはいたもののいざ自分の事となるとやはり準備からバタバタでした。5/19、20時に派遣要請のメールが一斉に送られていたわけですが、私がその連絡に気が付いたは21時50分(22時までにJICAにお返事の電話をしなくてはならない状況)。そこから病院、JICA事務所に連絡し、電車で家に帰って準備を始めました。というのも19日は病院のスタッフ数人と元町の焼き肉屋で夕ご飯を食べていました。お腹一杯美味しいお肉を食べ、ビールも飲み21時くらいから眠くなりお店でウトウト。そろそろ帰ろうかと携帯で時間確認をすると、なんだかメールと電話の履歴が沢山。何事か???というところからの今回の行動です。あと10分携帯見る時間が遅かったらタイムアウトでした。師長さんに連絡し(勤務調整の事など可能かどうかを確認し病院の許可を頂く)、JICA事務所に参加の意思ありのお返事をしました。電話の向こうは慌ただしく電話が鳴り響いている様子。私もドキドキしながら電話をしました。急いで家に帰り、まだ行けるかどうかわかりませんが準備を始めました。20日16:30成田空港集合に間に合うように飛行機の便を調べ、マニュアルを見て荷物をスーツケースに詰めたり。そんなこんなで準備を行っていたら23時頃JICA事務所から今回の派遣メンバーに決定しましたとの連絡を頂きました。再び師長さんに連絡をし、明日の朝病院に行く事を伝え電話をきりました。実家にも電話をしましたが、意外とあっさり「気を付けて行っておいで」という母親の言葉。早い人なら1時間程度で荷物の準備を行うという事ですが、私の場合はやはり時間がかかり夜中になりました。夜は明日からの為に寝ようと思ってもやはり気持ちが高ぶり寝れず、朝を迎える事となりました。決まったのは嬉しい事ですがそれとともにどんどん、自分がちゃんと役割を果たせるだろうか、兵庫県災害医療センター、兵庫県、日本という名前を背負うという事にもなるんだなと思うと余計不安な気持ちが高まってきてしまいました。

朝、いつもの時間に病院に向かいました。やはりみんなの顔を見るとホッとするもので沢山の笑いの混じった温かい言葉で気持ちをほぐして貰いました。やっぱりここが自分のベースとなる場所だなって改めて思った瞬間でした。みなさんに挨拶をして空港へ向かいました。飛行機に乗るまでの間もメールをもらったり、電話をもらって涙が出てきたり自分自身の緊張がかなり高まっているのがわかりました。

成田への直行便に乗り成田到着。集合場所に着くとよくわからないまま、荷物を預けJDRベストなど貰い、新聞社のインタビュー。そして結団式。あれよあれよという間に成田出発のテレビに映っていた場面になります。今回は初のチャーター便という事もあり私達以外は乗っておらず、後ろの席はガラガラの状態でした。(後で聞いた話ですがチャーター便は高いのですが一般旅客機で移動した場合も4-5tの資器材を運ぶわけですから重量オーバー分の料金を払わなければならない為かなりの料金になるのでそれ程変わらなくなるそうです)飛行機の中では貰った資料を読んだり、隣の席に座ったメンバーと話をしていたら成都に着きました。空港に着き飛行機を降りた時のカメラの数には驚きました。正直怖いくらいでした。空港の一室で16日から現地に入っていた救助チームとのミーティングです。活動の報告、現地の診療所などの視察により大きな所には軍が入っている事、とりあえず人海戦術がすごいという事、新たなニーズを探す必要があるかもという事で今後の活動について少し不安も感じましたが、いいニュースとしては「対日感情はとてもいい」という事を聞き少しホッとしました。

以下は活動の主な日程です。

  • 5/20 成田から中国成都へ(23時頃到着)
  • 5/21  成都市第一人民病院視察
    (中国側から提示された病院だがニーズはなさそうと判断) 四川大学華西病院視察
  • 5/22 活動場所が四川大学華西病院に決定。スタッフ各部署に分かれて活動
    (初日は救急外来、ICU、透析室、産科・小児科に分かれて活動。後に救急外来、ICU、臨時ICU、産科・小児科、透析室、放射線科、薬剤部に分かれて活動となる)
  • 5/22,23,24 救急外来にて活動
  • 5/25-31 臨時ICUにて活動
  • 6/1 レセプション、テント片付け
  • 6/2 帰国

救急外来では救急車が到着すると被災地から来られた患者さんは除染テントに連れていかれ服を脱がされます。傷がある人はテントの中で傷の処置も行われます。そして建物内の救急外来処置室へ。私は華西病院ナース、天津から来た応援ナースに混じって運ばれて来た患者さんにモニターをつけたり、採血、ルート確保の介助を行ったり、通訳さんを通じて患者さんと話をしました。検査を行う時にはレントゲン、CT室に患者さんを搬送するのですが、そうなるとストレッチャーを押す人が数人どこからともなく現れ患者さんを連れて行きます。ある時は一緒に行こうとすると行っちゃダメと止められました。仕事を分業しており、人の仕事は取ってはいけないんだな、という事を心掛けながら活動を行いました。 

3日間の救急外来での活動の後、私は臨時で開設されたICUで活動を始めました。活動内容は清潔介助全般(清拭、陰部洗浄、手浴、足浴、洗髪)ベッド周辺環境整備、体位変換、関節可動域訓練、口腔ケア、排痰・喀痰補助及び吸引、ガーゼ交換の介助、採血の介助、ルート確保時の介助など日々病院で行っている事です。この臨時ICUは華西病院のスタッフもいましたが、天津・ハルピンなど他地域からの応援スタッフが主に活動しており中国混合看護チームと共に患者ケアを行ってきました。活動は中国人医療スタッフ、そして彼らの医療をポジティプな視点で関心を向ける事から私達の関わりは始まりました。彼らの大切にしている事、中国の医療、看護の方法を把握し、中国のやり方に沿って中国人スタッフと共に看護実践を始め、その作業を続けて行く中で自然に中国人スタッフも日本のやり方を見てみたいと興味を持ってくれ、結果的に日本でやっている看護をほぼそのまま実践させてもらえる事となりました。中国人の医療活動や看護活動を否定したり阻害したりする事がないように留意して活動は行っていきました。看護実践に於いて多少の技術の差や考え方の違いはあっても、看護本来の目的や目標、それを達成する技術の根幹的な部分に大きな差はありませんでした。そのため、中国人スタッフと共同作業をしていても、言葉がなくとも意思疎通できる場面が多く見られました。「看護」というのが一つの共通言語のような印象を受けました。異国の病院で看護活動を行う場合、相手国の看護の“枝葉”(看護の重要な部分ではなく、その過程や手順、器具など)の部分さえ早期に確認できれば看護の幹は同じなのでその後はさほどの苦労もなく共同作業が可能である事がわかりました。

しかし、言語の壁は様々な部分で残ります。今回の活動の中ではほぼ中国語オンリーという中で通訳さんの役割はとても大きいものでした。私達とスタッフ、私達と患者さん・患者さん家族という沢山の方との中国語通訳を必要としました。(今回私について活動してくれたのは四川大学の学生ボランティアさん。医療用語を勉強しているプロの通訳さんではありません)彼女達の単なる言葉の変換だけではなく中国人と日本人の発想や考え方の隙間を埋めつつの通訳作業にはほんと頭が下がる思いでした。結果的にそれが中国人スタッフや患者、家族との円滑なコミュニケーションにつながり私達の活動を大きくサポートしてくれていました。彼女達自身も体位変換に関わってくれたり、患者さんに声を掛けてくれたり、また携帯の音楽をかけてくれたり(看護婦さんも自分の携帯をポケットに常に持っています)と共に看護を行ってくれていました。それと言葉に関してはお互いの言語を理解しよう、使おうとする努力が大切だと思いました。ひとつのエピソードですが患者さんをベッド上で頭側に移動させる時に日本人スタッフは中国語を、中国人スタッフは日本語で1、2、3とカウントする場面がみられたのですが、このように互いの言葉を使う事でお互いの関係が親密になっていったように思います。また、簡単な日常的な言葉を互いの言語で紹介し合い、使い合う事でコミュニケーションと互いの信頼がより一層深まったように思いました。それと今回改めて感じたのが「看護の力」です。顔がこわばっていた患者さんが手浴を行っていくうちに気持ちいいと言ってくれ、他のケアも受け入れてくれるようになり、そして震災の時の話をしてくれるようになりと看護ケアを通して患者さんの気持ちをほぐす事ができると感じたからです。特に言葉の壁があるからよけいそう感じたのかもしれません。あと、看護ケアに関しては「行っている事は同じような事だけど、細やかに丁寧に行っている部分が違う」と中国人スタッフから評価して頂きました。この部分は日本の看護として誇りを持って大切にしていったらいい部分なのかなと思いました。

14日間の活動でしたが、1日お休みを頂き,四川名物の火鍋を食べに行きました。ほんと辛いのですが癖になる辛さです。(中国人も火鍋を食べた後は下痢になると言っていました)真っ赤な汁の中に赤の唐辛子、緑の山椒、その他諸々です。赤より緑が辛い、緑には注意!!というのが今回の食生活の中で身をもって経験した事です。今回私が経験させて頂いた活動は本当沢山の方の協力があって成り立っていたものであると思います。
センタースタッフの皆様、日本の皆様、中国の皆様、本当にありがとうございました。


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